no.007 「未完成という思考」
     2010年修了 大江新研究室 白井進也
   
 

 2010年に大学院を卒業し、社会人の生活にもやっと慣れてきたかなというぐらいで、社会人の生活があまりにも健康的で、学生時代の生活によって蝕まれた体のリハビリ期間のような気もして、最近を過ごしています。

 で、ここ最近、よく思う事があります。自分の修士設計を「都市の余白」というタイトルで出したのですが(このHPでも閲覧可能です)、未だに自分が作り出した作品が自分の中で消化しきれていないようで、理解できてないのです。自分が作ったものだから、きっとそれは自分の奥底から出てきたものには間違いないが、その出所がいったいなんなのか。理解できないまま、手が進み、それに思考が付いていったという感じで、まだまだ修士設計を題材に考える事がありそうな気がしています。しっかりと拾ってあげないと大事なものを忘れてしまいそうなので。

  僕は学生時代、学部2年の頃から修士2年の5年間、夏は高山建築学校に毎年参加していました。高山建築学校は夏の10日間、岐阜県の飛騨市の山奥で共同生活をしながら、実際の素材を使い1/1のスケールでものをつくるワークショップです。実作にいたるには、プレゼンし説得をしなければいけません。あれやこれやと考えるのですが、嘘はつけません。すぐに見つかってしまいます。僕にとっては、心を裸にして、さらけだして、真剣に向き合う修行の場でした。ここで見つけた事、感じた事、できること、なんでもないこと、すべてがいまとなっては財産です。

  最後に実行委員として参加した2009年度は、講師を含め25人の生活と作業の運営を把握した上で、自分の作品を作る事になり、かなり大変な作業でした。作成場所は高山建築学校のメインの玄関。そこに塔のようなものを作成しました。脇のアプローチ階段を通るさい、門(や鳥居)をくぐったような感覚を与えられるものを作りたいと思いはじめて、結果的に3年かかりました。1年目は考えた結果、何も手が付けられず、2年目で塔を作り、3年目で最後の仕上げでした。しかし、デザインの最後の一手があの時の僕には打てなかった。

  それゆえ、決めきれなかった塔の最頂部を今も描き続けている。今の僕の中では、高山建築学校の入り口にある塔は、常に何かを投げかける悔しくもありがたい、そんな存在となっています。
学生時代の集大成の修士設計も高山建築学校の作品も、思っている事をいざ形にしてみると、自分の領域から外れて手が届かなくなってしまっている。一瞬、すごく胸くそ悪い感じなのですが、よくよく考えてみると、新たな未開拓の地に向かい自身の思考の先端を探そうとする行為にこそ、建築を学んでいく面白さがあるのかなと思ったり、最近はしています。自分の思考の中の未完成の部分が今も、そして将来も「建築とは何か?」という疑問に対して考えさせてくれるような気がしています。

→[修士設計「都市の余白」]

メインのアプローチの脇で来校者を出迎えるコンクリートの塔。この制作により、集合写真の撮影によく使われる場所に変貌。
 
[プロフィール]    
白井進也
   2010年修了 大江新研究室
   

 現在、出身地の愛知で愚直に自問しつつ設計修行中。
 2001年以降、学生主体による運営で夏の10日間開校となった高山建築学校。本文にあるように、白井君は昨夏の実行委員として、なんと今年5月(活動記録誌作成送付完了)まで活躍したのでした。