no.091

構造設計の仕事
   

後藤 俊三(1974 年修了 高橋ゼミ) 


 1974年から織本匠構造設計研究所に勤めた関係で丹下都市建築設計、黒川紀章建築都市設計事務所の設計に携わることができました。両事務所では国内の仕事も担当してきましたが、海外案件に携わったことは私の構造設計人生で最大の幸せなことでした。

 丹下設計ではサウジアラビア国等の中東案件、黒川事務所では中国案件を担当しましたが、唯一基本設計から現場常駐管理を担当した「日中青年交流センター」が最も記憶に残っている設計です。

 日中国交回復(1972年)後の記念プロジェクトとして、1984年に日中共同設計としたJICA案件です。日本側は黒川事務所・中国側は北京設計院が担当し、最初の打ち合わせ会議は日本外務省の会議室で両設計事務所の設計案(確か3案を持ち寄り)で激論が始まりましたが、最終的には黒川事務所の全体計画案で進めることになったのです(施工は竹中工務店)。

 スパン約60mの日中両国の友好の架け橋(写真1,2)の研修棟を中心に、左側に中国側設計のホテル棟、右側に日本側設計の劇場・研修棟、プール棟が配置されています。ホテル棟はRC造地上24階、友好の架け橋は鉄骨トラス・橋脚はSRC造(写真2)、低層の研修棟は地上3階のRC造、劇場棟は屋根鉄骨造・客席などはPRC・SRC造の混合構造、プール棟はNSグローブ(新日鉄)による立体トラス架構(写真3)となっています。

 その当時の構造設計はパソコン(PC8001)が出回り始めた時代で、構造解析は平面フレーム解析ソフト(FAP)を駆使し、荷重計算は手計算でした。

 友好の架け橋はボックス型鉄骨を立面と同じ配置でトラスに組みましたが、その当時の中国では突合せ溶接の技術はなく、松尾橋梁の溶接技術者を連れて行き、私共々毎日のように鉄骨工場に通い指導しました。又、劇場棟(円形劇場)はRC造・SRC造が主体ですが、2階客席などのハネ出し部には梁・柱にプレストレスを導入しました。プール棟は北京でのアジア大会で練習用として使用する目的で50mプールであり、平面的には卵型で立面的には半球体の立体トラス構造としています。トラス部材は日本で作成して船便にて運び、現場で合わなかった部材は、現在は考えられませんが航空便で運びました。

 日中両国ともに同額の100億ずつを拠出する今日では考えられないJICA案件プロジェクトでした。日本側の工事費は100億・中国側は土地提供で100億とのことでしたが、土地は国にものですから中国のプライドを尊重して同額を拠出した形にしたみたいです。

 着工は1986年の春からでしたが、その年の秋からは建設機材及び労働者はアジア大会建設優先で機材が不足し遅々として進みませんでした。あげくの果てに、1989年6月の天安門事件で日本人スタッフは全員追い出され日本に帰国し、1年近く現場は止まりました。結局、竣工は1991年頃と記憶しています。

 運営は中国共産党の青年組織である全青連(全国青年連合)ですが、現場管理(監視かな?)を一緒に行った当時の青年達は、今は時々ニュースに登場する中国共産党・政府の上級幹部になっています。

 

 
「日中青年交流センター」全景:左側の高層建物が中国側の設計のホテル棟、日本側設計の中央に研修棟(友好の架け橋)、右側に円形の劇場棟、右奥にプール棟が配置されている。
   
 
  「日中青年交流センター」研修棟(友好の架け橋):左右の橋脚はSRC造でスパン約60mの鉄骨トラス構造(ボックス加工の角型鋼管)
   
「日中青年交流センター」プール棟:立体トラス架構の楕円形平面の鉄骨造
   
 
   
   
   
   
 
[プロフィール]    
ごとう しゅんぞう    
後藤 俊三 1974年修了 高橋ゼミ

   
1947年 青森県弘前市生まれ
1974年 大学院修了 高橋敏雄研究室
1974年〜1991年 織本匠構造設計研究所(現 織本構造設計)
1991年〜 後藤構造設計事務所